自家中毒

たわごと置場。感想及び記録

「エリザベート」におけるトートの存在について

ミュージカル「エリザベート」におけるトートの存在とは問題。
観る人によって印象や解釈がけっこう違うところですよね。
というわけで、今まで観た中で自分が感じた印象を勝手に分類してみるの巻。(2019年7月時点)
あ、特に考察とか深い感じでのやつではないし、まとまりもないです。

 

まず、分類にあたっての前提。
トートをどう捉えるかは、ルキーニに拠るところが大きいのではないか案でいきます。ルキーニこそが物語の枠組みを規定する重大な要素だとみなします。
最初は物語への導入者、劇中ではずっと語り手兼狂言回し、最後の最後で当事者となる男。
作中でトートのことを語るのは、ルキーニただ一人。革命家達も、エリザベートですら、トートについて語ることはない。
そもそもルキーニに召喚されてトートは舞台上に現れた。
というわけで、ルキーニから考えるトート解釈。

 

一つめ。
A・舞台全てがルキーニの創作妄想話である説
・トートは架空
・新聞などから知り得た歴史的事実を基に、登場人物達の言動も全部ルキーニの妄想
・最後の暗殺及びその後の自らの処刑のみが厳然たる事実


二つめ。……の中でも2パターンあり。似ているようで微妙に違うのです…
B・ルキーニを媒介にエリザベートの人生を追っている説


1)
・トート=エリザーベートが生み出した「死」の概念が人型になっている
・心の隙が生じた時や、死そのものを意識した時にたちあらわれるモノ
・「私にだけ視える」存在。対話し、つど反発することで実は生きる気力を得ている
※現実外の世界をも幻視してしまう気質を持った人としてのエリザベートヴィッテルスバッハ家の血統にはそういう不安定な要素もあるようですし。

2)
・トート=「死」そのもの
・存在を感じられない時もあるがつねにそこに在るモノ
エリザベートの傍らには死の気配があった(身近で起こる死、または自らの死への希求など)ことの舞台的表現としての「トート」
※生命力に溢れているのにどこかで死に惹かれているというアンビバレンツさを持っているエリザベート
死に惹かれている人は、死からも愛されているように見えるもの。

B説だと、エリザベート自身についても延々考えてみたくなる罠が待っています。


三つめ。
C・ルキーニがまるっと正しいことを語っている説
・トートも実在している
・舞台で語られることは、あったかもしれない愛と死の物語

 

……今のところはこのへんまでで。
人の数だけ解釈があるのと思うので、機会があれば他の方の意見も聞いてみたいところ。

 

ちなみに、漠然と抱いていたパターンを明文化してみようと思ったのは、帝劇で絶賛上演中の成河ルキーニがとてもとてもツボだったからです。
\インペリアルテアトーロ!/


社交的で愉快な一方で他人に向けられる感情の見えない暗い眸、ナイフを受け取った後の挙動、どれをとっても「あ、この人ヤバイ…」とびんびんに思わせるキャラ造形。
日常にまぎれているマジキチさんほど怖いものはないのです。
(特にナイフを受け取った後の、刺し方お試しの動きがマジモン感半端ない)
中盤の書き割り的振る舞いをしている時でさえ、貴族階級には明確な憎悪を、市民達には嘲笑と軽蔑をあらわにしている。
なのに、トートには従順に傅いているんですよね。
彼こそが一番トートの存在を信じている、つまり、死を求め死に最も憧れている人物なのでは、と思ってしまったらもうルキーニの物語が立ち上ってこざるをえない。

ルキーニを通して観る「死」についてと「エリザベート」について。
成河ルキーニ、イチオシです。

 

ついでに。個人的には東宝版演出の方が宝塚版よりも好きです。
浪漫やセンチメンタリズムよりも、虚無やシニカルさの方が嗜好です。
また、「エリザベート」は耽美か、と問われれば自分は違うと答えます。
小池修一郎氏は実は耽美演出がそれほど得意じゃない気もする。(ポーの一族とか……)根が耽美気質ではないのではないかと。
でも「エリザベート」はむしろ硬質でアイロニカルな演出こそが合っているので大勝利です。